アート旅/旅アート


by kinoppi-cxb
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「見ること」をめぐり、「見ること」に思いめぐる

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島国日本ではほとんどの場合、道を進めばそのうち海に辿りつく。海とともに生きてきた歴史も長く、ほとんどの人にとって海は身近にある存在だ。私もはじめて海を見た時の記憶はない。まったく、ない。であっても海を眼前にした時はいつも、心が揺さぶられる。ましてや大人になって、あるいは物心ついて海をはじめて見るのであれば――。

長崎県美術館で開催の「ソフィ・カル―最後のとき/最初のとき」(2016/2/6~3/21)。作品の1つ『海を見る』(2011年)は、生まれてはじめて海を見た人々の姿をとらえた映像作品だ。日本と同じく海に囲まれたイスタンブールという土地に住みながら、貧しさゆえに海をみたことがなかった人々(しかも撮影された海は、彼らの住む土地から10kmも離れていなかったという)の、はじめて海を見る瞬間が5つのスクリーンに映しだされる。流れるのは波の音だけ。彼らの発する言葉もなく、説明もない。ある人の後ろ姿――涙をぬぐっているような仕草にもみられるが、泣いているのかわからない。ある人の表情――微笑しているようにもみえるし、悲しんでいるようにもみえる。深刻な表情の男性もいる。彼らははじめての海をみて、何を思うのか。海をみているのか、それとも海と対峙する自分をみているのか、あるいは――わからない。わからないからこそ想像する、想像をめぐらす。

フランスの現代美術家、ソフィ・カル。彼女の長年のテーマである「見ること」をめぐる3つのシリーズで構成された本展。順番は前後してしまったが、『海を見る』の前に、生まれつき目の見えない人々に、彼らにとって美しいものは何かを尋ねた『盲目の人々』(1986年)、人生の途中で視力を失ってしまった人々に最後に見たものを語ってもらった『最後に見たもの』(2010年)が、それぞれ展示室別に展示されていた。

とても個人的な体験談であるが、我が家の娘は超低出生体重児(超未熟児)として生まれた。超低出生体重児は未熟児網膜症がかなり高い確率で発生する。現代の医学では、治療によって失明に至ることは多くはなくなってきたが、それでも未熟児網膜症が原因で視力や視野など目の問題や不安を抱えている人も決して少なくはない。娘のご縁で出会った早産児の会でも、お子さんの目の不安を抱くご家族にも多く出会った。身近に目の見えない人はいないが、目が見えないこと、目が見えなくなることは、遠い話には感じられず、だからこそ『盲目の人々』、『最後に見たもの』で人々が語る言葉は、深く、深く胸に浸透していった。そして、考える。目で見る、心で見る、「見ること」の行為は1つではない、と。

そして最後の作品『海を見る』にたどりつき、感情のさざ波がまたやってくる。せつないのか、哀しいのか、泣きたいのかなんなのかわからない。繰り返し波立ち、どうしようもない気持ちで、息苦しくなってしまう。だが、最後の最後の展示作品によって、水中から出てようやく空気が吸えたような、息苦しさから解放される。自らを制して制して、解き放たれたかのようにはしゃぐ姿の子どもたちの映像によって。

蛇足だが、本当に最後に展示されてある、ソフィ・カルと杉本博多の共同作をエピローグにもってきているところがまた秀逸で。作品はいわずもがなだけど、展示構成も非常に素晴らしかった。
さらに蛇足だが、会場で配布されるリーフレットも、最後の本展についての解説文まで熟読必須だ。

それにしても、観覧から2週間が経とうとするが、時おり、ふっとこの展覧会が頭をよぎり、「見ること」に再び、何度も思いをめぐらしている。こんなに長く気持ちを引きずる展覧会は久しぶりだし、まだ、しばらく長く気持ちが引きずられそうだ。



ソフィ・カル―最後のとき/最初のとき
2016/2/6~3/21
会場:長崎県美術館
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by kinoppi-cxb | 2016-03-15 10:36 | 展覧会レビュー